何を書いたものか。

まずこの度の大震災で被災された方に、心よりお見舞い申し上げます。

震災後、こうした状況にあって、「何かを記しておこう」という気持ちそのものはあるのだけれど、さて、何を書きたいのか、というと、良く分からない。

テレビや新聞やウェブ上に広がっている悲惨な情報の山に、ただ言葉を失う。
福島の原発情報を見つめながら、そこで戦い続ける人たちの事を思うと、胸が詰まる。

自分に何ができるか、などと考えもしない。
「何かできることがあるはずだ」という思いさえ、傲慢に思える。

地震のあった日、車で走っていた僕は、その大きな揺れが収まったあと、すべての事を思考の枠外において、ただ家族の無事だけを確認しようとUターンした。
幸いにして親族に怪我をしたものもおらず、ホッと胸をなでおろしはしたが、しかしそれは本当に、自分の身の回りの話であって。

その日を境に、流れてくる情報は、焦燥感ばかりを掻き立てる。
気持ちを整理するためにも、情報を吟味し、自分の中で整理し、未来の可能性を並列化する。

あと出来る事は祈るだけ。

祈り、という行為は、「超越した何か」を蝶番にして、他人と僕とを隔てる。
「他人事」に分離する。
自分とは違う命を、自分よりもっと優れた何かによって守って欲しいと。
そうしなければ、人は苦しむ。ただ知らぬ人の命を思って。

息子はもうすぐ、生後7ヶ月になる。
お風呂が大好きで、「お風呂に入るよ」と声をかけると、喜びの声をあげる。
それは親の欲目なのかも知れないけれど、ただ楽しそうに、湯船の中ではしゃぐ喜びを満喫しているように思える。

そういう事が本当に幸福な事なのだと、あらためて理解する。
ほかほかと温まった息子を抱きしめながら、その瞬間を慈しんで、せめてこの幸せを我が子に手渡してあげたいと願う。
それ以上の何も出来ない、という仄かな無力感と共に。

良い未来を、せめて希望ある未来を、次の世代に見せてあげたい、と思う。
そのために、日々ただ地に足をつけ、日々ただ働こうと思う。
サッカーを愛する人として、サッカー界が何か為そうとするなら、わずかでもその手助けをしたいとも思う。
わずかばかりであれ、募金もしようと思う。

とりあえず、自分が自分として、きちんとやれる事をやろう、と。
今はただ、そのように思う。

やはり、何も書けてないな、と文末に添える。
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2018年11月

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